釈迦はかつて悟ったとされています。
何を悟ったのかということについて理解することは困難です。
釈迦は若いころに結婚をし、その立場を捨て、修練の道に入ったとされています。
おそらくここには無常の炎(一刻一刻自身の肉体が時間の流れで燃えていくように朽ちていく様子)を意識で見ていたのではないかと思います。
無常の恐ろしさに我慢できなくなり、修練に入りました。
その後厳しい修行によって悟りを開いたとされています。
ウダーナという書物によると
「無明によって苦悩が生じる」と悟ったとなっています。(縁起の法)
この点、釈迦の若年から中年の疑問というのは、「苦悩はなぜ生じるのか?」ということにあったのかもしれません。
この原因を、釈迦によれば無明(霊的無知)にあるとしました。
宗教では「自我をなくすこと」が悟りと言われます。
しかし瞑想によると、これは明らかに間違いのようです。
霊的無知を瞑想による注意強化によって打ち破ると、そこには自我はもともとありません。
自分の想念・自分の思考・外的事象すべては外的なものであり、「ただ時間とともに突風のごとく流れ、変化するもの」であることが明確に観察できます。
私はこの様子を一度意識で見たことがあります。
そのときにまた想念のもととなる白い精神エネルギーの粒を確認しました。
その白い粒を想念とすることで、人間はものを考えることができるというわけです。
そのときの感性によれば、想念が自身の外側の現象でありました。
つまり想念は自分ではないということです。
本当の自分というものは、まだ白い粒かどうかはまだ不明です。
しかし悟りとはいかなるものでしょうか?
悟りとは何か?ということについていくつかキーポイントがあると思います。
釈迦の悟りと合わせて考えれば、
ということが重要だと思います。
つまりこれからすると、「苦悩はその原因を観察できるようになれば解消できる」ということではないでしょうか?
それには霊的無知を解消し、観察・注意能力を瞑想によって獲得するということが重要であると思います。
このようにすることで
を理解できると思います。
このときに本当に自分とは誰で、いかなる存在なのか?ということが理解できると思います。
自分とは分離された自我でなく、他のすべてと統一された生命であるということが理解できれば
ということから解放され、次第に苦悩が存在しなくなります。
そして生命の本質である真の愛を強く感じるようになることができるようになります。
真の愛とは、他者も自分とまさしく同じことで痛みを感じ・悩む尊敬すべき存在であることを理解する感性から内に生じるものです。
人間が感覚として感じるべきものであり、幸福・安心・心地よさ・生命と深く関係しているようです。
真の愛の領域には苦悩は存在できません。
ただ心地よさしかないからです。
この真の愛を繰り返し経験し、その本質を認識することが、創造・自分・そして他のすべての存在するものを理解することになるでしょう。
2016年8月追記
悟りというのはビリーマイヤーさんの著作でいう「真の愛」と同義だと強く推測します。
真の愛というのは一体感の確信ということですが、この人のレベルで何度か感じたことがあるので紹介しますと
が印象に強く残っているものです。
すべての人を自分と見るその感性は最初から存在していて、その人の奥底に最初からあったものだと思います。
何年か真実の私とは何かを考察してきましたが、「すべてを私と見る感性」は
というところがあるので、どうも真実の私ではないかと強く推測しています。
それはすべての人を自分と知っている知識であり、それが意識に到来すれば実に心地よく、解放的で、境界がないものだとわかります。
物質的意識では他の人を自分のように考えてしまう何かの想念によって意識にその感性が到達するようになっているようです。
釈迦の場合にはひょっとすれば瞑想でこのような感性と遭遇し、感動の元に悟りと表現しているのかもしれませんが、私の場合にはまだ瞑想中にその感性を感じたことはありません。
ただ瞑想では
というような現象が何度も体験していて、注意から悟りや真の愛に到達することができ、真の愛や悟りというのは純粋な注意から生じるように感じています。
つまり真実の瞑想をしていると自動的に誰もが悟りに達することができ、敏感な意識力を習得することで人生の困難を解消することもできるようになるというのが私の仮説となっています。
「おじいさんに見る深い意識・認識 」
「宇宙一の精神との遭遇」
2016年8月 追記
悟り、本当の私というのは微弱なものであればこの人のレベルでも今すぐに客観注意を使用することで体験はできます。
しかしより深く感動するような真の愛、悟りというのは簡単に再度の体験をすることは難しいです。
外に出て何かのきっかけがあり、意識もせずに突然起こるということが多いです。
そのため悟りというのは一度理解して人生が終わりということでなく、極論をいえばその感覚を24時間持てるようになることが本当の体得なのかもしれません。
おそらく肉体を持っている生命体にそのようなことは可能ではないでしょうし、釈迦も生存中は人に腹を立てたことも、陥れようとしたことが一度もないということはまずないと強く推測します。
聖者といってもただの人間であり、阿弥陀、ソクラテスのような人間でも人間的な弱さと絶対に無縁ではないと考えます。
では悟りに至るまでどのような方法があるのでしょう?
その方法はすべての人間にとって1つの方法しかありません。
ということだと思います。
ちなみに重要だと思われる事項から記載しています。
時間がない場合、最悪瞑想だけでも良いかもしれません。
一見関係のなさそうに思える瞑想と悟りです。
これについて追記しておきます。
案外というかほぼすべての地球の方は、自身の精神で何が起こっているのか全く見えていません。
(もちろん私もすべては見えません)
また自分が何か?も知りません。
内的世界には無数の混乱があり、それによって無意識に苦悩するのが地球の人です。
しかし瞑想では観察力を非常に増し、ときに信じられないことも理解できるようになります。
(結果、超能力者ともいわれることでしょう)
この観察力によって内的世界が徐々に見えるようになり、
といったことが理解できるようになります。
キーポイントは純粋な注意集中を磨くことであり、これによって苦悩を解消し、内的に天国を形成し、突出した能力を示せるようになります。
(そのため動いたり、音楽を聞いたりするような瞑想は無意味かつ有害で、もはや瞑想でもありません)
そしてついに自分が何か?についても経験として理解できるようになるでしょう。
天国も地獄も自分の意識のなせるものであり、達成できるものとなっています。