投稿日:2014年1月20日
昨日は休日恒例の
に行ってきました。
相変わらず気持ちが良く感じました。
その帰りにある老人を見かけました。
おじいさんで杖をつき、やっとのことで歩いているような様子でした。
私でなくても
「それほど長くない」
ことはすぐにわかると思います。
そのおじいさんに意識がひどく興味と同情を感じていました。
「毎日何を思って生きているのだろう?」
「苦しいことは何だろう?」
「逆にあんな体でも楽しいこともあるのだろうか?」
ほんの一瞬で感性がこれらを感じたときに、内部にいつもの異変を少し感じました。
「あのおじいさんはどこか遠くの世界のものではない」
「そんなひどい状態でもまさしく今そこに存在する生命である」
「どこか遠い自分と関係のないことではなく、そのおじいさんの意識は毎日、自身の体の状態と向き合っている」
そんなことを瞬間に感じ、その感じたところは非常に深い意識の箇所であることを感じました。
「そう。忘れていた。この箇所と感覚が真の愛だった。」
「真の愛とはすべてを理解する」
しばらくそこに立ちすくみ、その感覚を感じるほかありませんでした。
しかし帰宅後に少しその体験をさらに分析してみました。
ここ数年にようやく何度か真の愛を感じるまでになれました。
しかしそれまではほぼなかった体験でした。
真の愛は
というキーワードがあります。
それは真に対象を理解することで、その存在を認めるということです。
この肉体も存在をしていますが、その存在はおそらく真の愛と深く関係していると思います。
同時にイマヌエルの時代通観を少し今回で理解することができました。
時代通観は真の愛なしに不可能でもあるようです。
真の愛とは理解であり、時間や空間を超えて対象を理解できます。
その結果、時代通観が可能となります。
真の愛を体験し、その能力の深さを感じ、はじめてどれほどイマヌエルのすごいか昨日は少し理解できたように思えました。
意識の深化(深く侵入する能力)を活用しての時代通観をいとも簡単にできるイマヌエルは単純ですが、とてもこの意識の叶う相手ではないと思いました。
しかし同時に、
「瞑想を継続すればいつか手が届く領域である」
ことも感じました。
この一生では無理かもしれませんが、もっと意識力をアップさせて何でも見える能力を保有したいと思いました。