投稿日:2013年8月30日
このサイトでも苦悩という言葉をよく使用しています。
またビリーマイヤーさんの著作や、釈迦も苦悩という表現を言っているシーンを目にしたことがあると思います。
この苦悩というものはいかなるものか、本質的なことを今日は記載しようと思います。
賢者はみなこの苦悩というものを非常に重視しています。
それは自由を阻害し、幸福と全く逆のものであるからです。
逆に苦悩をはっきりと理解できれば自由でないものにとらわれることも少なくなるといえます。
つまり苦悩を感知することは非常に難しいですが、把握することには非常に大きなメリットがあるということです。
私も現在でも日常的に苦悩なるものを完全に感知し、避けることができているわけではありません。
むしろその逆で、わずかな確率だけ感知できているという段階にすぎません。
しかし苦悩を理解できたきっかけがありました。
瞑想とは強制的非強制の体得です。
瞑想とは、不自然に無意識に呼吸を操作しようとする初期段階の物質意識の作用を排除し、本当に自然のリズムで自動的に運動する生命に委ねる行為というところがあります。
つまりこの図式は現在の地球人のレベルを示してもいます。
人は日常自然に逆らい不自然な想念などで生きています。
そのまま瞑想に入ると不自然な物質意識の作用に出会うはずです。
しかし強制的非強制では自然に委ねるという感性であり、そこに苦悩や反発はありません。
また幸福の状態であり、生命の領域でもあります。
独善もなく、思い込みもありません。
この状態を日常でも少なくても想念・感情上である程度達成できていれば苦悩はないのではないかと思います。
非常に引用が長くなりました。
では苦悩とは何か?ということですが、非常に現在の地球のレベルでは残酷な結論ですが、
「どうにもならないことを考えること」
が苦悩であるということです。
しかしこのことさえ感知できている人も少ないかもしれません。
自然に委ねるということは究極の境地とは上記で記載しました。
など一切の考えることはかなりの割合で苦悩です。
瞑想中の強制的強制と性質が違うものにあまりかかわらないほうが良いと思います。
これらは無常なものに執着する餓鬼道であり、達成されようが達成され離れるときに非常に苦痛を伴うものです。
それを地球ではいろいろな場面で自身でも体験できると思います。
痛みを伴うものはすべて苦痛です。
はじめいかに魅力的に見えてもいつか苦悩をもたらします。
地位、名誉、お金、親族、家、服、貴金属、仕事、やりがい、情熱、男女関係、
このような変化するものに必要以上に執着せず、「いずれなくなるものだ」と理解した上で距離をうまくとることが苦悩を将来に与えない方法です。
それは日常、人生において強制的非強制を達成している状態といえるでしょう。
そして苦悩とは強制的強制、非強制的強制が該当するとなります。