投稿日:2018年2月10日
人生というのは定期的に辛い時期が到来します。
そのときにいつも今まで何をしてきたのかと思うわけですが、よく人生は楽しみなさいといわれることが多いと思います。
真理という側面から人生とは楽しむものでしょうか?
年末から正月にかけて真剣に考えてみたことを今回は記事にしたいと思います。
精神世界系の人が20世紀末ごろから楽しいことを仕事にしようというような趣旨の本を多く出すようになり、日本でも人生は楽しむものというような価値観も出てくるようになりました。
若干違和感を覚える人も多いかもしれませんが、瞑想的な観点で見るとどう評価できるでしょうか?
瞑想では幸福感というのは下のような流れで出てきます。
つまり実施する、集中するということがきっかけで幸福感が出るという流れになります。
この点、楽しいと思うことを行っていくという考えは真実と逆で間違いということが明確になります。
真実はむしろ逆で、楽しい、楽しくないとは関係なくただ余計な考えをせずにスルーしていく、こなすというようなスタンスです。
私もときどき人生の虚無感に襲われることがありますが、同じような人も多いのではないでしょうか?
など現代社会ではこの手の感想になることは多いです。
ただ今回考えてみて人生が楽しくないのも当たり前で、無理に楽しくしようとしてもあまり意味もないと悟りました。
というのも所詮この世のすべては無常でただ変化しかありません。
どれほど大事にしていてもそれはいつか100%崩壊するわけで、大事に思っているほどそれとの別離のときに非常な苦痛に襲われるわけです。
つまり大事に思うという感情に欠陥があるというわけです。
この世のものすべては物質的な限りにおいてすべて変化、崩壊などの欠陥があり、そこに余計な感情を抱く人すべてに苦痛をもたらします。
真実はただ観察するというようなスルーするような見方しかありません。
人生は楽しくないということでなく、もともとすべて欠陥のある世界なので悲しみを虚無感を感じて当然なわけです。
むしろお金、物質などに所有意識があり楽しめるほうが正しくなく狂っているわけです。
2000年ごろからネトゲ依存という言葉も出てきて、さらにスマホをずっと見ている人も多くなりました。
基本的にこれらの人はすべて依存状態で、自分との対話をできない病気の人だと見ています。
こうしてみれば大半の日本人は病気なわけですが、
スマホというのはゲームも含めて依存させることで金銭を支払わせるツールで、依存による搾取システムです。
時間、金銭、電源などを取られていきます。
そのときの脳の状態は通常とは違って、建設的でなくなります。
スマホ依存とは孤独に我慢できなくなった人がすべて発症する現代病の1つであり、寂しさとはまた違います。
孤独というのは悪くなく自分と対峙する時間やチャンスを持つことで、それに不満を持つと寂しいとなります。
孤独というのは本当の自分に出会えるチャンスでもあるわけです。
人生で家庭、仕事、恋愛などで悩みを持つ人は多いです。
私も当然何かの悩みはあるわけですが、非常に苦しいものでもあります。
最近突然非常に大きな腹痛に襲われました。
立つことも困難になり、座っていることも難しいほどのなかなかのものでした。
薄着でいても冷や汗が止まらずに、そのときは真冬の寒さもまったく感じませんでした。
おそらく人生で悩みがあるというのはこのように差し迫った状態でなくある程度余裕があるということではないかとも思いました。
本当に必死にならないといけないと悩む余裕さえもないのです。
私も人生で悩み、苦痛もいろいろと感じてきましたが、おそらく正しいのは悩みについて瞑想のようにただ観察するということではないでしょうか?
そうしてスルーしてクリアするということに人生の本当の意味があるように思います。
たとえば仕事で上司に評価されないことが悩みとして、大きな功績を上げて評価されることに意味はないです。
むしろ評価しない上司の立場をその人のように理解し、評価されていない現状の自分に何も感じない状態で、ただ仕事を無心で行い自然と評価されるということのほうが価値のある流れだと思います。