瞑想での認識 私とは自然の一部か?

投稿日:2014年12月1日

 

昨日の瞑想体験の話です。

 

ほんの一瞬ですが、感動するような認識と遭遇をしました。

 

その体験を備忘のために紹介しておきたいと思います。

 

瞑想で深く生命領域に侵入する

 

まずはいつものように

 

  • 呼吸の音に注意する
  • 想念がストップする
  • 意識や注意の力みもなくなってくる

 

というステップをクリアしていきます。

 

すると世界には自然なリズムで刻まれる生命を具現する呼吸しか存在しなくなります。

 

この段階で最近は自分が死んだ後には生命・自然・呼吸しか残らないことを知りました。

 

このときのレベルと同じ領域です。

 

ここでしばらく呼吸を見つめていました。

 

そのときにほんの一瞬ですが何かの確信に遭遇することができました。

 

それは

 

「私とは宇宙全体を具現する超自然と一体したものであり、その分身である」

 

という認識でした。

 

なぜ私とは宇宙なのか?

 

ここでも何度も記載してしまっているかもしれませんが、

 

「私とは誰で、何か?」

 

ということは10年以上も考察してきたことです。

 

ビリーマイヤーさんんの著作にはさらりと答えが記載されていますが、そんなことを目に入れてもほぼ無意味です。

 

体得しなければ役に立ちません。

 

今回はその体得の走りといっても良いのかもしれません。

 

意識がマヒする瞑想でもまったく機能をマヒさせないものがありました。

 

それが呼吸であります。

 

たとえばみなさんも公園を歩くと、木が自然に紅葉しているのを見るはずです。

 

しかしどの人間も紅葉させているわけではなく、あくまでも気候といった自然現象の一環のはずです。

 

人間が作用しなくても機能するのが自然です。

 

仮に宇宙で一人残らずこの瞬間にすべての人間や生命体が死滅しても星は後公転します。

 

つまり人間の意識をぐるりと取り巻く意識(自然意識のようなもの?)が存在していて、人とはその中にある点に過ぎないということが事実のようでした。

 

そのため意識がある種の死亡状態となる瞑想では死後の自分を見ます。

 

それは呼吸を具現する自然意識ではないかと思いました。

 

人間は死にますが、それでも残るその自然になぜか一体感を感じました。

 

よく世界を客観視すれば、本当はすべてが客観的なものです。

 

人の死も、地震といった「自然」災害での被害もです。

 

ただ現象としては家がなくなったという現象にすぎず、人はそれに「良くないこと」と評価をしているので災害といいます。

 

しかし何かの力が加わり、家が壊れたという現象に過ぎません。

 

つまり宇宙とはどこまでも客観的であり、違うのは人の意識という宇宙での点の中でしかないということです。

 

そこに評価があり、主観的になります。

 

死に、残るものも客観であり、外の世界も客観、私はそこに一体を観察し、どうも本当の自分とは自然なのではないかと感じるようになれました。

 

しかし非常に残念なことはその感性を今日起きてみると失っているということであり、まだ自分のものになっていない感性のようだということです。

 

もう少し体験できれば、何かつかめるかもしれないと思いました。

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