自分が死んだ後に残るものの認識と交通事故の予兆を味わう

投稿日:2014年11月17日

 

昨日は休日ということで産土神社さんに参っていました。

 

珍しく私が車を運転しての参拝です。

 

参拝を終えて、帰宅しようとしたところでした。

 

ある十字路に差し掛かり、何かの予感が意識を走りました。

 

するとそのほんの数秒後に女の子が車の前に走って横切りました。

 

しかしその前に私はブレーキを踏んでいて、ありえないくらいのブレーキで事故を避けることができました。
後ろからその女の子の兄が来て、私に申し訳ないというような表情を送りました。

 

そしてその女の子に

 

「突然に道に出てはいけない」

 

とたしなめていました。

 

そのころにはこの意識は冷静になり、その光景に興味を失っていました。

 

興味の対象は、予感に向かっていました。

 

この意識はその事故をしかけたときのほんの数秒前に

 

通りから人が飛び出てくることを知っていた

 

のです。

 

私はそこに異常な驚きと感嘆を感じていました。

 

数年前からこの種の未来予知は無意識にできるようになり、何度か助けられています。

 

この未来予知の感性は

 

  • それまでの状況や自分の考えと何の脈絡もないほのかな予感として現れる
  • 無意識のように現在と脈絡もない未来を示すので、無視をしてしまうこともある
  • 突然に意識に到達するようになる
  • 声や考えのように届くのでなく、感性のように感じる対象として届く
  • その感性は非常に強く感じるものではなく、そこはかとなく何となく感じるものである
  • 考えや自分の予測とは違って透明感があり、注意力のないときには素通りしてしまうことも多い

 

といった特徴があります。

 

今回私はこの能力は存在することをほぼ体験でもって確信をするようになりました。

 

おそらく易などすべての未来予知よりも使いようによってはすごいと思います。

 

なぜなら儀式や計算をせずに、嫌なことは危ないことを自動的に感知できて、かつ避けることもできるからです。

 

昨日は私の運命も変更されたのかもしれません。

 

その前日での大き目の瞑想体験

 

その前日の土曜日に大きな瞑想認識をすることができました。

 

記憶が定かではないですが、今年は不作の年で大きい認識はなかったのではないかと思います。

 

年の終わりも近くなり、ようやくまともな瞑想認識を1つ獲得できました。

 

それは自分の死後に残るものは何か?ということの認識でした。

 

瞑想をし、意識が弛緩し、呼吸だけを直接感じる状態に入れました。

 

しばらくその自然に生じては消えていく呼吸を見ていました。

 

すると突然になぜか理解したことは

 

  • 呼吸とは自然であり、純粋な生命であること
  • 物質的肉体の呼吸とは別に、自然的な何者かは意識の奥で呼吸をしていること
  • 弛緩した意識がマヒし機能をしなくなっても、その呼吸は止まらないこと
  • つまりその自然的呼吸とは意識の死後も機能するものであるようであること

 

です。

 

呼吸とは医学では酸素と二酸化炭素の交換といったごく表層的なところしか網羅していない領域に留まっていますが、確信を持っていえるのはそんなものでは絶対にないということです。

 

これは何年も前に知ったことです。

 

呼吸には超自然ともいえる何者かの大いなる意思そのものであり、それは人間の死後も消滅せずに残るもののようです。

 

意識がある種の消滅状態となった弛緩状態でも機能している光景から認識できました。

 

まだ私のレベルではその自然的なものが永遠属性を持つのかどうかまではわかりません。

 

ただ今回の瞑想で確実にいえることはこの肉体と人格よりかは長命であるとはわかりました。

 

その自然的な呼吸とは何度か経験していますが、人間の意識ではまるで機械のように無意識的なものに映ります。

 

なぜ冒頭の事故の話も合わせたページにしたかというと、私の感じではつながりがあるのではないかと思ったからです。

 

つまりこの無意識的、自然的な意識の「声」を私は事故の数秒前に感じて、ブレーキを踏んだのはないかと思ったのです。

 

無意識、感性といった点で共通点があるので、このように推測しています。

 

また以前の記事(もうあれから3年もなるのですね・・・)

 

無常と死の恐怖

 

ともリンクしているようにも思っています。

 

つまり無意識であり、加齢もまったく恐れません。

 

病気も老化も死にさえも、他人の不幸にも何も思わずに淡々と自然的呼吸、無意識は受け流します。

 

その光景はまるでドイツ語超体験の無常の大河の流れを見たときの感じと似ています。

 

つまり私の現段階での仮説としては

 

  • 永遠とは無常そのものの属性であること
  • 自然は永遠ではなく無常であるが故に永遠であること

 

ということです。

 

変化を示す無常がなぜ永遠と思う方も多いと思います。

 

経験や察しの良い方は深くうなずくかもしれませんが、永遠とはつまりは

 

「永遠に変化していく無常の流れ」

 

のことだということです。

 

固定化し、永久に変化がないものというのが創造や宇宙ではなく、永遠に時間を持って変化(成長?)していく無常の姿こそが宇宙・創造の本質ではないかと考えています。

 

それに伴う人生での転落や老化、病気、死を恐れ、できもしない反抗をしているのが地球人といったところです。

 

また私もこの無駄な自然への反抗をしていることを知ってもいます。

 

恐怖や不安やその他の不愉快な感情とはすべて反抗によって生じているものであり、自然になりきれない無知の証拠になっているということのようです。

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