投稿日:2011年6月19日
最近真理の杯のドイツ語を目視している。
今日寝ようと、寝床に入ったときに、突如「音」が変わった。
「キーンッ」という耳鳴りのような音が異常に強くなり、その音に圧倒的な時間の流れを見た。
その時間の流れは法則のように強く、人間は誰も変更することはできないことは明らかだった。
そしてその時間の強烈な流れは、人も含めた物質的なものをすべて過去へと押しやる。
まるでその時間の流れは大河のようである。
すべてを過去へ押しやる。
仕事の苦悩、人生の苦悩、楽しみなどすべての物質的なことは過去へ流される。
その末路は死しかありえないことはそこでは明らかだ。
私は流されたくない、恐ろしい。
何かこの大河の中でつかまり、とどまることができるものはないのか?
無理だ。
何もない。
その時間の流れを支配しているものは創造というような完全な100%間違いのない正確なもの。
その100%のものが時間を流し、私を殺す。
その確率は100%であり、絶対に避けることはできない。
私は完全な創造に100%の確率で殺される。
その完全なスナイパーは絶対に私から狙いを外さない。
一刻一刻、死刑の断頭台を登らされているようだ。
この救いようのない恐怖は、逃げ場も、死を回避することも絶対にできないことに原因がある。
恐ろしい。
この感性は、「時間の流れを意識の中で実際に経験し、その経験の中で自分の肉体の崩壊を直接に感じる」
この死の恐怖も今まででかなり印象に残っている重要な体験です。
この後、しばらくキーンという音を聞くのがとても恐ろしかったです。
真理とは甘いものでなく、厳しさも含むものであると思いました。
日常、死の感覚を持たない我々は、結構無駄に時間を浪費しています。
しかしこの感性ではそのようなことはできないでしょう。
おそらく釈迦が生老病死の苦悩を感じて王の地位も捨てて修行の道に入ったのもこのような感性があったからでないでしょうか?
奥の意識では、王の地位も、すべてのお金も無意味であるということが明確です。
そのようなものが土壇場で一切役に立たないのは明確です。
死の恐怖の前に、いかなるものも存在できないのです。