投稿日:2013年8月9日
毎回驚きますが、今回も驚きました。
ここ数か月はアラハト・アテルザータのドイツ語をコツコツ目視していまます。
たしか昨日はかなり後ろのほうのページで「人口
投稿日:2013年6月26日
昨日はドイツ語コード目視(アラハト・アテルザータ」をしました。
それからすぐに眠ろうとしました。
そのときに久しぶりに「死の恐怖」を知覚できました。
久しぶりだと最初は感じていました。
しかししばらく体感していると甘くない事態を迎えることになりました。
やはりあの死の知覚にはまだまだ克服できないということのようで、恐怖を感じるようになってきました。
「この恐ろしさ、どうすれば良いか?」
と感じつつ、過ぎるのを待っていました。
やはり本物の体験は勉強になると思いました。
2年ほど前の死の恐怖のドイツ語体験から少しづつ研究してきたつもりでしたが、まだまだのようだと感じました。
真理を研究している、という人には自身で瞑想・ドイツ語超体験で体験をし、それを分析し、かつ再現できなければ、死や苦境といった土壇場では何の意味もありません。
ただ押し流されるだけです。
あるのは別の後の人生で真理を再現できる可能性があるということです。
自身でまったく同じ体験をして、認識を得なければいけません。
物質的納得に意味はなく、生命属性のある感性の部分で認識をしなければどれほど強がっても土壇場では虫のごとく死ぬという選択肢しかないのです。