投稿日:2013年6月4日
昨日の体験です。
最近はいろいろあってここ2週間ほどドイツ語目視ができない感じでした。
昨日はようやくドイツ語目視ができました。
1週間ぶりだったと思います。
最近の目視はアラハト・アテルザータです。
今ようやく半分より後半の感情的想念のくだりです。
寝る1~2時間前にこの部分のドイツ語を1ページ目視しました。
そして寝る時間になりました。
横になってほんの数分程度たったころ、次のような考えに至りました。
「人生はむなしい」
「すぐに過ぎてしまう」
「形態のあるものは過ぎる」
「この人も随分年齢を重ね、すでに人生の半分あたりだろう」
こんな想念を抱きつつ、次第に感性が機能しつつあることに最初は気がつきませんでした。
「老人は今どんな気持ちでいるだろう?」
「街中に顔からすると間もなく亡くなる死相がある人もいる」
「そのような人はある程度死期も自分でも感じるだろう」
「どんな気持ちだろう?」
「自分の存在の消滅への寂しさ?怖さ?・・・」
とここで、感性が機能していました。
老人も私と同じいずれ死ぬ儚いもの。
このような感性が流れたとき、私は老人に対し慈しみを感じ、抱きしめたくなりました。
ここあたりまで流れて、ようやく「これは真の愛のような感性の考え」であることに気がつきました。
ハッとしました。
そしてその感性を味わった感触から、今回の体験・感性はドイツ語によるものであることを悟りました。
真の愛と慈しみはほとんど同じかもしれませんが、微妙に異なるように昨日は感じました。
この部分についてどこがどう違うかを説明するのは非常に困難です。
というのも昨日にはじめて感じた慈しみに対して十分な感性での分析ができなかったからです。
ただ、昨日の慈しみというのは、真の愛に比べて認識という領域の光が真の愛よりも弱いように感じました。
ただどちらもすべての存在の弱い部分を認識することで感じることがあるという点では共通であるように思えます。