投稿日:2013年8月9日
毎回驚きますが、今回も驚きました。
ここ数か月はアラハト・アテルザータのドイツ語をコツコツ目視していまます。
たしか昨日はかなり後ろのほうのページで「人口が2004年で75憶人」などと記載があるページでした。
特に直後に何かの体験があるなどの予感もまったくなく目視を終えました。
1階に降り、お茶を飲もうとしました。
1階の台所の角で飲むのがいつものスタイルで、今回も当然のようにそうしとうとかがみました。
ほんのしばらくして異常が内にあることに気がつきました。
ドイツ度目視から数分も経過していません。
「これはおかしい。明らかに自分の意識ではない。ドイツ語の影響だ。」
と確信しました。
それは
「今までこの人生で数千回も見たことのある台所の景色がなぜか突如そのときだけまったく見たことのないものとして完全に見て・感じる感性」
でした。
それは信じられないくらいに「はじめて見る」感性で、なぜかいつもの意識が少し麻痺したようになりました。
いつも感じるのですが、ドイツ語の体験はアイデンティティーを持ちにくいです。
というのもいつもの自分の意識とレベルがまったく違い、完成されたようにも感じるからです。
「これは誰の感性・認識だろう?」
とかよく思います。
今回も同じように感じました。
しかしこれは推測の域を出ませんが、感性を感じつつ、
「内にもともと何か完成された意識があり、その感性が意識に到達している」
というように感じたのでした。
つまり今回の感性も同じで、内にある存在・意識にはもともとというか常時、「すべてのもの・ことを新しい目で見ている」のではないか?と思いました。
これもかなり大胆な感性からの推測ですが、
「内のある存在とは感性の源泉ではないか?」
というものも少し思いました。
もともと苦悩のない素晴らしい意識領域は内に最初から最後まで完成されて存在していて、それがドイツ語といったきっかけで到達することもあるということではないかということです。
真の愛も、平和も、幸福も、もともと内にあり、何かのきっかけで意識にやってくるという点で、源泉ではないかと少し思いました。
しかしこの点は十分な体験上からの証明ができないので、解明したいとも思いました。
さてその後ベッドで横になり、少し先ほどの体験を思い出していました。
よく思い出してみると、その体験した感性においては
「私はいなかった」
もしくは
「私は著しく麻痺しているように減退していた」
ということです。
その感性は恐ろしいくらいに透明な意識でした。
何しろ偏見・記憶・感情といった色がついた不純なものがまったくないので、物質意識でいう「私」がまったくないようにも感じました。
透明ということは、物質的な私というものも新しい目で見るということです。
つまり手も足も肉体すべてがはじめて見るようにしか思えないということでした。
また今この瞬間に流れている時間も新しい目で見るというような感性も感じました。
「すごい」
と思いました。
まるで私が理想としている完全な境地がすでに内には存在しているようにも思えました。