投稿日:2016年3月14日
ここ何年か自宅で仕事作業ばかりで外に出る機会もなく、ときどき散歩を日課に入れるようになりました。
またいくつかのことがあり、人間の死について考察する機会をもらいました。
そのときに感じたことを記載してみたいと思います。
ある知り合いが急に風呂で吐血したと連絡をもらいました。
すぐに会ったのですが、顔の表情が一変しました。
死を予感したのだと思います。
とりあえず易で状態確認すると本人が心配していた肺などでなく、胃など消化器系の炎症とでていました。
すぐに処置(といっても霊符とお守りを作っただけで30分ほど慎重に判断しただけですが)をし、その後特に何も異常はないと連絡をもらっています。
印象に強く残ったのは会ったときの表情です。
どんな人間でもこのような表情になるのだろうと実感しました。
真理を追究せずに、ただ漫然とどうでも良い人生を歩んでいてもその時がくれば誰でも(たとえ世界一の権力者であっても)生と死、つまり真理の問題と当たり今までの人生でしていなかったことを後悔しなければいけないのです。
そのために死も存在するのかもしれません。
手塚治さんの釈迦の漫画では青年期の釈迦が死におびえて悟りに到達しないときを描いています。
どうすれば死を穏やかに迎えることができるのだろう?と何度も自問します。
あるとき別の修行者からいわれます。
「動物のように死の瞬間まで死のことを考えないことだよ」
私もこれが正解だと考えています。
ただし補足すれば、死について考え、死を消化することは必要です。
しかし感情的に死を恐れてはいけないし、死を感情的に考えないということが正しいと思います。
最近はこのように死について考えることもあり、コンタクト記録②のセミヤーゼの話を読みました。
詳しく書くとビリーマイヤーさんの活動を邪魔するので良くないですが、私なりに考えたのは
何度か老人に感じた真の愛について考察しましたが、時間の流れに逆らい死を恐れることは間違いなのかもしれません。
真の愛とは川の流れのように流れを自然に許容することです。
死が怖いので避けようとしたりしないことです。
自分の死も理解し、受け入れることがたった1つ宇宙で正しい生き方でもあります。
そのときの感覚を思い出しました。
このような場合に過去の真理体験は便利です。
この肉体が滅びても霊とは純粋精神であり、自己同一感の元でもあり、生命そのものでもあり、肉体がなくなってもそれはあるはずです。
あの存在が本当の私かはまだ釈然としませんが、意識の奥深くにあるあれをより自分のものにすることでも死の恐怖から解放されるのかもしれないと考えました。
あれを自分の意識内でかなり意識するようになれば人格に影響が出るかもしれないと思いますが、何とか自分のものにしなければいけないと思いました。
地球での大半の人間は肉体を自分とします。
これもよく考えると不思議ですが、私は今のところ霊の自己同一感と関係していると考えています。
自己定義をする原資である霊が原因となって、肉体や業績、想念を自分として見ます。
特にレベルの低い人ほどこのような執着や所有欲が強烈です。
しかしそれははじめから滅びるものに固執することであり、それを釈迦は執着として正しい生き方ではないとしました。
私もこの点については意識内でいつかのときに確認し、ほぼ100%間違いないことを精神的体験で「知って」います。
霊は意識内に存在するといわれていますが、ある日の瞑想でこの機微を少し感じました。
どうも霊というすべてを自己同一視する精神があり、その中(?)にある意識は不完全な自己同一感を発揮します。
それが所有欲などの本当の正体のように感じました。
もちろんそのような間違えた思考形態は死あるいは変化のたびに非常に大きな苦痛を感じるようにプログラムされているのがこの宇宙の法則ですが、間違えていても霊と関係することを感じることがややできた意識にはじめて親近感を持つことができました。
(私はこの人生のはじめから自分の思考形態が好きではありませんでした)
つまらない意識体として自分の想念や思考を見てきましたが、特に純粋注意の部分はどうも霊と関係しているようだということでうれしく思いました。
その意識の部分は滅びないかもしれないからです。
またその部分は前回の人格までもずっと使用してきていた?そこでは前世とも関係を持つことができるかもしれない?などと私は空想しました。
瞑想とはやはり真の自己、霊の部分に近づく行為のような感じがします。