投稿日:2016年3月14日
ここ何年か自宅で仕事作業ばかりで外に出る機会もなく、ときどき散歩を日課に入れるようになりました。
またいくつかのことがあり、人間の死について考察する機会をもら
投稿日:2013年4月18日
昨日の認識をもとに「執着」について考察したいと思います。
「執着」という言葉でやはり想起されるのは私にとってはやはり釈迦です。
釈迦の悟りとは「縁起の法」とされます。
上から順番に下へと発生させていくスパイラルを見たとされます。
もしこれが正しいとすれば、執着はほんの表層部分の苦悩の原因に過ぎません。
無明とは霊的無知とすると、つまりは「自己認識の欠如」と解釈できると思います。
本当の自分と、虚偽の自分の区別が知識としてないために、意識が混乱をきたし、やがてその意識の姿勢が苦悩を生じるということだと思います。
「人々は「わがものである」と執著したもののために悲しむ」
(スッタニバータ805)
という言葉もあるようですが、本来私でないものを私とするのが苦悩の原因かもしれません。
この話は「強制的強制」(人が変更できないものはあきらめること)という生きる姿勢・意識の姿勢についてだと思います。
釈迦の縁起と認識と比較すると、おそらく妄執・執着と関係しているように思えます。
私の瞑想での認識から検討すると、釈迦の執着とは、「どうにもならないことをどうにかしようとする」地球人の特有の意固地さ・頑固さ・つまり妄想と執念ではないかと思います。
流れ去るものを観察し、やって来るものも受ける。
という自然の川のような姿勢が、その人に天国をもたらすようです。