投稿日:2016年3月14日
ここ何年か自宅で仕事作業ばかりで外に出る機会もなく、ときどき散歩を日課に入れるようになりました。
またいくつかのことがあり、人間の死について考察する機会をもら
投稿日:2013年4月23日
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。
そうすれば死を乗り越えることができるであろう。」
(スッタニパータ 1119)
釈迦のいう「空」とは「執着のない内的状態」を指すと思います。
死や人生の浮き沈みを恐れるのは、自我に執着している最たる証拠です。
自慢するのも、人を嫌がるのも、ボランティアできないのも、真の愛を感じられないのも、すべてそうです。
人の執着は明確に観察できる人はあまりいないと覆います。
それほど深く、多岐にわたって自我への執着があります。
おそらく執着がない地球人はいないでしょう。
この執着というのは、知らないうちに形成されているものです。
悩みを人がもつときには、多くの場合、この執着が原因となっています。
もし執着がなければ、悩みを幸福のうちに一瞬で流すことが内的技術として十分に可能です。
たとえその悩みが自分や周囲の人の死であったとしても。
「空」とは、物質的な執着がないことを指すと思いますが、これらがなくなっても何もないとはなりません。
空とはないという状態ではなく、自然に沿うということを指します。
そのため空を達成しても、幸福など自然の価値や知識が知覚できるはずです。
例えば、瞑想で完全に自分の体を感覚で消し去るほど深く入ったとしても、それは何もない状態ではないことは経験者ならわかるはずです。
空には、幸福や生命といった価値があるのです。
おそらく私はそれらの価値には、物質すべてを超える価値があると予感しています。