投稿日:2014年3月8日
昨日は散髪に行き、その帰りに本屋さんで苫米地英人さんの著作を読みました。
「空海は,すごい 超訳 弘法大師のことば」
空海について記載されている本ですが、空海と釈迦の理論について比較されて書かれていました。
その中の一文に目が止まりました。
「釈迦の縁起とは実体がないということの理解」
といったような記載がありました。
菩提樹の下で釈迦が開いた悟りとは縁起と言われています。
私も随分前からこの縁起については興味がありました。
縁起とは
「これがあるからこれがある」
といったような原因と結果を示すものとされています。
釈迦は苦悩について非常に関心があったとされていますが、苦悩の原因を特定したのがこの悟りということかもしれません。
簡単にいえば苦悩とは誤った考え、自然に反する考えから想念となり、感情となり、そして苦悩となるということだと思います。
執着という不自然な考えなどは苦悩につながっていることがでています。
また数年前の「無常と死の恐怖」という経験によれば、物質的世界において留まる実体のあるものはないということが垣間見えました。
どちらも自然や創造に関する認識かもしれませんが、自然とは人の意思などとかかわりのないものであります。
川の流れのような機械のような正確性で経過する自然にはいかなるものも留まれないことを少し体験しました。
そこに当時の私は異常性と恐怖を感じました。
実体のない物質的な私は確実に死ぬことを知覚できたからでした。
そしてそれを自然として解釈し、理解し、恐怖を感じないというヒントは執着をしないという精神や心の持ち方であったと思います。
ここでもう一度縁起について考察します。
釈迦は縁起で幼少期からの苦悩の正体や原因を理解し、それによって苦悩の解消を垣間見たとします。
(おそらく輪廻転生を解消したり解脱する方法というのは嘘だと思います。
失礼な話ですが、釈迦程度のレベルで解脱などはありえないからです。
本当の解脱が近い人ならすでに肉体を持たないようになりつつあらないといけません。)
苦悩が解消された状態は私の見たところ自由だと思います。
自由とは距離を取ること、取れることです。
つまり地球の人が浸りきっている感性である「この世は現実」として人生の浮き沈みに一喜一憂することとは全くの逆です。
無常の完全な理解によってこの世は現実ではなく、あくまでもこの瞬間も変化している現状であることとなります。
現実ではないので変化もするのでそこまでコチコチに重要視する必要はありません。
所詮一時の夢のようなものです。
想念で現状が変化したりできるのも夢の1つの証拠でもあります。
感性の敏感な方はこの段で感知しているかもしれませんが、この世を現実ではなく現状とした段階で心地よさがあることがわかります。
それが距離であり自由です。
おそらく釈迦は縁起によってこの世にひっつきすぎてものを考える自由ではない考えや感性を謝りであることを理解し、それが達成されることで苦悩がなく幸福や天国が内に生じることを理解したのかもしれません。
私も少しはこの境地が感知できるといっても良いかもしれませんが、釈迦のように割合長い時間をこの境地で維持できるレベルとすればまたまったく違うと思います。