投稿日:2017年4月11日
今回の認識は4月9日の瞑想での体験です。
ただし一部思考による認識もあって、その分だけ確度は低いと見ています。
しかし瞑想後も検討していく中で、一定の確度はあるように感じたので記事にすることにしました。
この人はここ数年、
について継続して考えてきたわけですが、その箇所について1つの仮説とはいって良いと思います。
その瞑想の少し前に嫌なことがありました。
内容としてはある人に余計で、嫌な気分にさせることを言われたということです。
仕事をしつつもどこかでその言葉が残っているようで、しばしば不愉快な想念が起きていることを知っていました。
そのような中で座って瞑想を開始したのですが、最初はやはりその想念も出てくるようでした。
しかしどこかで振り切るようにして集中することで、いつの間にかその想念が起きないようになっていることに明らかに気づきました。
気持ちも軽くなり、想念や意識というのは所詮外的影響を受けるわけで、つまらないものだと感じました。
さらに瞑想を続け、自分が呼吸に「なる」といういつもの瞑想感覚に入りました。
いつもは特に何も感じないのですが、この「なる」という事象について興味深い気づきをしました。
つまり物質的意識の核ともいえるような注意というものがあり、それが何に「なる」、染まるのかということが日常的に絶え間なく起きているということです。
普段人間というのは人格を持ち生活しています。
それを自分と認識するわけですが、これも実は騙された結果です。
ということを意味しています。
意識能力のない人間ほどこの状態をクリアできず、ずっと何かの悩みが出ればその人格の悩みに「なって」勝手に苦悩するわけです。
ビリーマイヤーさんのような賢者ともなれば、それに気づき、違う不愉快でないものに「なる」ということも可能だと思います。
つまり精神的な自由を持っているということです。
少し前から考えていたことですが、意識はなぜ自己を感じるのかということは実に不思議でした。
どれほど遅れた人でも自我意識を持ち、それによって人を傷つけるような事態もあるわけです。
意識能力のほとんどない人でも他人と比較するのはこの星の人が好きな傾向です。
その力の源には強く興味を持っていました。
おそらくこの自我意識も今回の「なる」力と関係していると思います。
もともと奥底の純粋注意では自我というものは存在していないようですが、その注意を自我に「なる」ように仕向けています。
(ただし奥底の注意では自我を持たない自我というものが存在するようです。
それがビリーマイヤーさんのいう無意識ということだと思います。
非常に逆説的ですが、私はいないという私が真の自己だと考えています。)
その原因というのは五感などであったりするわけですが、五感による快、不愉快によって自我が存在するというように意識は錯覚をします。
ビリーマイヤーさんの解読によれば宇宙の本質とは真の愛ということですが、いまいちこの点についてイメージしきれないわけですが、今回の認識で1つ仮説が出てきました。
ということがある種の瞑想の本質だと思っています。
つまり真の愛というのはよりわかりやすくいえばこの瞑想中の同化を指すと考えています。
今回の「なる」力というのはこの同化と同義であり、つまり同化こそがいろいろな存在を存在させている根本的な原因ではないかと考えました。
たとえば上にすでにいいましたように
気づく、感じるというのもそれに同化、「なる」ことで起こる現象です。
真の愛とは「なる」力であり、瞑想中の同化をイメージすれば修練している人にはわかりやすいのではないでしょうか?