投稿日:2018年4月11日
瞑想をしていて最近(3月下旬あたり)思うことがありまとめておきたいと思います。
英語を勉強したことのある人は特に理解できるのではないかと思います。
昔学生時代に英語を勉強していて、やや面白いと思っていたのが
この2つの言葉の違いです。
大学入試でも初歩的な問題ではよく昔は出題されていたのですが、実はこの2つの単語の意味の違いは真の自己とも関係するように思います。
聞こえるというのは勝手に聞こえるということで無意識の作用ですが、聞くというのは意識的な作用で物質的意識の作用かもしれません。
あるいは何か特別に聞くことが必要となり、意識が無意識の力を強く借りようとするともいえます。
今までも何度か血液が流れる、心臓が動くというのは無意識の機能であり、人間の意識が関与するわけではないと記載してきましたが、聞こえるというのも同じことだと思います。
たとえば電車の中で座っていてすごく楽しみにしていた雑誌を買ったとします。
すごく集中して読むので周囲が見えないような状態となることもありますが、それでもこのときでも無意識には電車の音や周囲の乗客の話などは聞こえています。
しかし意識は別のものに強く集中していて意識には登ってきません。
逆に心臓も動かそうと24時間365日集中できる人間は絶対にいませんが、たとえ寝ていても心臓は動いているはずです。
血液も同様ですが、つまりこのように無意識的な作用や機能を果たす意識が内部にあるということの1つの証拠となります。
私は瞑想をしていてこの正体がどうも瞑想中に感じる呼吸を作動させている無意識であるように感じてきています。
瞑想をしていても意識は呼吸という無意識よりも一瞬遅れで注意を払います。
つまり主体的に動くのは無意識のほうであり、また意識は実は主体的ではなく常に受動的に機能するだけのものである可能性を感じます。
などは典型的ですが、瞑想での想念を観察すると過去についてのものであったり、未来への不安といったものもあります。
つまり最近の瞑想で感じたことの仮説ですが、
というような感じではないかということです。
この点、本当に外界のことを感じているのは無意識のほうで、意識は二次的なものでしかないのかもしれません。
かつてドイツ語コードによる超体験で、過去世までの知識を常時使用して意識が機能していることを見たこともあります。
というものでしたが、私レベルの人間では絶対に見えませんが、意識のほんのすぐ裏に距離もほぼないような状態で過去世までの体験や知識が常時働いているというものです。
そのときのドイツ語コードの体験はほんの数秒だったと記憶していますが、その後は一度もこの種類の体験はしていません。
今回のことでこのときの体験を思い出しましたが、無意識が99.9%以上存在していて、意識というのはほんの0.1%以下の要素にすぎず、ほんの意識の表面でしかないというようにも感じた記憶もあります。
人間というのは観察能力がないほど人格や普段の自分の意識に慣れ親しむもので、それがすべてとして生きています。
そのため人格や感情と距離が取れないために日常の苦痛や苦悩をもろに受けて、それだけしか見えないようにして生きています。
ただ今回のことを考えていて、実は意識というのは存在していないのではないかとさえも感じます。
瞑想がうまくいくと集中する呼吸しか存在しないように感じる領域もあります。
正確には
としかないわけですが、もし想念も交えないこのような深い瞑想領域が真実の世界とすれば、この2つ以外は存在していないのかもしれません。
正確にいえば存在の永遠性があるのはこの2つだけで、想念や人格、そして意識は一時的な存在形態、非存在というような表現なのかもしれません。
ビリーマイヤーさんの著作に出てくる非存在というのを理解したとはとてもいいませんが、思考中に確認していく中でやや面白いと感じたことでした。