投稿日:2018年1月13日
1月13日の瞑想で久しぶりに気づく体験をしました。
事情でしばらく真理の杯のドイツ語を目視できない時期が続いていたのですが、最近はしっかりと目視できているのもきっかけだったと思います。
自然なリズムの呼吸に注意をし、集中していくのはいつもと変わりありません。
そして自然な幸福感を感じるのも同じです。
ただ今回はいつもと違っていて呼吸という対象と一体化することが幸福感の生まれるきっかけであると感じました。
今までは
というように見ていたのですが、そもそも一体化ということが幸福感の源泉ではないかというのが今回の瞑想の認識です。
その後もいろいろと瞑想体験について考察していたのですが、意外と大きな認識かもしれません。
幸福感の逆といえば不幸、迷い、悩みになります。
これがなぜ生まれるのか地球の科学では分析できていませんが、今回の認識を利用すれば分離がその原因と考えることもできます。
つまりもともと境界のない精神を保有する人間は、個人として分離することで迷い、悩みを持つようになるというように考えられます。
創造というのは義務感のようなもので宇宙を作ったとされています。
それによって今も未熟なこともあって地球では少なくても迷いを感じて生きている人しかいないわけですし、自分として存在したくないというような気持ちの人もいます。
少なくても生活や人生に充足しているという人はそう多くないでしょう。
しかしよく思うのですが、創造とは本当に義務感だけで宇宙を作り、今も回しているのでしょうか?
生物の行動にはモチベーションというものが必要とされますが、幸福感が創造のモチベーションではないかと私は以前から考えています。
つまり今もすべてに注意集中し、浸透し、同一化することで幸福感しかないのが創造の見ている世界です。
それこそが創造のブレないで存在を続けられる秘密ではないでしょうか?
最近今回の瞑想体験を分析していてコンタクト記録②を読む機会がありました。
そのP45では
というような記述があります。
真の自己というのは私の指す同一感と同じではないかとほど断定しているのですが、もしそうだとすれば真の自己というのは
というような特徴があるように思います。
瞑想で見る呼吸、そしてそれを動かす純粋精神を私は今まで真の自己と考えてきましたが、そうということだけでなくそれと一体化できる物質意識の奥にある意識の箇所もまた真の自己と深く関係するようだと感じました。