瞑想でずっと自分を見つめる目を感じた

瞑想でずっと自分を見つめる目を感じた

瞑想でずっと自分を見つめる目を感じた

投稿日:2018年5月11日


これは2018年4月18日の寝る前の瞑想でようやく感じることのできたものです。


当時は瞑想で突然気づいた感覚があって慌てて瞑想を切ってしまいましたが、普段とやっていることとそして感覚的な違いというのはありません。


ただ最近では珍しくやや大きな瞑想体験となりました。


瞑想でじっと見る精神を感じる


冒頭でもいいましたが特に瞑想でいつもとやっていること、そして感覚的な違いはありません。


  • 呼吸の音の鳴る箇所に注意を集中させていく
  • 想念をなるべく浮かべないようにする
  • 次第に想念といった「自分」が存在しなくなる
  • 純粋な意識を感じて自然な幸福感を感じるようになる


といったように瞑想は推移していきました。


最後の幸福感という体験をしばらくいつものように感じていたところですが、別の日常体験と突然リンクし、そしてある気づきを得ました。


遠くの坂で歩く人と風景を見る


ときどき自宅付近を散歩することもあるのですが、近くには一直線となっている道があります。


その道は坂の上の公園に続き、途中には川があったり、数本の木も植えられています。


今回の瞑想の数日前にある昼にその光景を散歩中に見て非常に美しいと感じました。


  • 川の付近を散歩する他の人を見る
  • 自然そのものの木を見る


人も自分は何者かはわかっていない人がこの星には多いのですが、目的も使命もわからないまま歩くという行為で燃えない内部の心を埋めようとしています。


そのわからない状態もいろいろと人生体験をし、何百という人生を経ればやがて本当の自分を知るでしょう。


木も桜が散り、緑の葉を蓄えています。


桜から緑になり老化していて、その一年というサイクルを何回もしていくとやがて完全な死滅という状態になります。


しかし私はそれで良いのだと感じました。


それが自然であり、私もそのサイクルから逃げられません。


そのことを瞑想で知っていました。


それを逃れようとするのが苦悩であり、すべての地球の人はそうして今も生きています。


その瞬間も生きていて、事実としては一瞬ごとに死に向かう生命を私はそのとき美しいと感じました。


たしかに死には向かっているものの、この一瞬そこにそれらは存在していて、私の意識がそれを全力注意でとらえれば、意識のある限りは永遠の光景でもあります。


そしてそれは無意識が記憶として置き、私が死亡しても、また木やその人がすべて死滅してもそれは記憶やデータとして残ります。


私はそれで良いのだと深く感じ、幸福感も感じていました。


瞑想での幸福感とリンクする気づき


瞑想の感覚に再び戻りますが、そのとき私の感覚は幸福感にあるリンクをさせたように思います。


それは坂の光景を美しいと感じ、そのときに感じた幸福感です。


坂の光景を私は一瞬ではありますが、注意し、はかなさとともに記憶に残すほどの意識をしました。


つまり瞑想で感じる幸福感も何者かが非常に強い注意を使っている結果ではないかというように感じたのです。


それもずっと幸福感のある領域なので、おそらく私の注意とは比較にならないほどの高性能で耐久性です。


幸福感というのは


  • 注意をして対象と一体化したときに生まれる
  • それによって対象を理解し、知識を得ることができる


という特徴もあることは瞑想体験で知っています。


こうして過去の体験とも合わせて考えれば人間の奥にある精神というのは


  • 常に何かに没頭して対象と一体化している
  • 常に観察している


というようなことは言って良いのかもしれません。


宇宙の形とその目的


ここからは私が物質意識で想像することですが、宇宙はあらためて何のために存在するのでしょうか?


何となくそれなりの根拠もあって想像できるようになってきました。


  • すべての存在に強い注意と集中で自身がなることで存在を可能にしている
  • ただし物質意識で感じる苦痛は完全にシャットアウトして向こうの領域には到達しない
  • 自身がすべてになることで体験を意識でしている
  • そして対象になることでその知識を得ようとしている


というようなところではないかと思います。


私も中年といわれる年齢にいよいよなってきました。


年齢と迫る死、人生で何もできていないことに当然焦りを感じるときもありますが、それで良いのだと最近は思えるようになってきました。


余計な感情を無視して、できることを着実にしていければその人生は成功なのかもしれません。